イロドリノセカイ

〜sweet moon dropの小部屋☆〜

普通という曖昧で不確かなもの

 

私は物心ついた頃からずっと普通を望んでいました。


「普通であればいい、それ以上は望まない。」そう思っていました。

 

けど今から思えばその時点で自分というものに対し


そしてその人生そのものに希望が見出せず諦めていたと言えるのかも知れません。

 

絶望はないけれど希望もない。


主体性も積極性もなく自分の人生をまるで他人事のように傍観しながら生きている


、そんな感覚でした。

 

けれどそんな状態になるのも当たり前なのだということを

そのときの私には知る由もありませんでした。

 


ある時自分の中でふと小さな小さな疑問が湧きました。

「普通って何?」

私にとっての普通って何だろう?


みんなが普通だと思っていることが私にとっての普通とは限らないかも?

じゃぁ、私が望んでいる普通って?

 

〈私の中の図式〉
普通=できて当たり前のこと。

もしくは、みんなと同じ。

 

身近な人達やTV、雑誌、本、そうして世間から刷り込まれた価値観やルール、常識。

そういった既存の概念の中で漠然と自分が創り上げたもの。


私自身が人としてできて当前だと思っていたことを普通という基準にして


その基準と比べてできていない自分に落ち込んでいたのです。

 

あぁ………そっか。


「それって普通でしょ?」このあたり前に使われるこの言葉がどれほど虚しく、

 

無意味なのかを私はやっと知ることとなった訳です。


共通のようで共通じゃない、この“普通”という言葉。

 

ひとりひとり価値観が違えば当然のことなのですよね。

 

普通=万人に共通は私の錯覚だったのです。(いや、天然がゆえの思い込み??笑

 

けど結局はこれも全部自分の理想だったのかもしれません。

 

しかもその理想が高かったという話……(苦笑)



その理想を基準としていたらいつまでたっても自分を


認めることはできませんよね。

 


続きます。