イロドリノセカイ

〜sweet moon dropの小部屋☆〜

『求めよ さらば与えられん』 〜neige〜



「 このブログに訪れる者達に言葉を伝えよう。

 

私は今はこの者(Rie)にネージュと名を与えられ、そのように呼ばれる者。

本来私からあなた達に伝えることは特にはないのだけれどRieの申し出により

今回言葉を伝えてみようと思う。

 

申し出というのもRieがブログに訪れる皆に対して私という存在と共に何ができるのだろうか?そして“私”という光を受け取り共に在りながら、どのように皆にその光を皆に届けることができるのかとそのように尋ねられたのだ。

 

だからこそあなた達にこうして言葉を紡いでいるのだよ。

 


私がどのような存在か?

私はこの地球上で語られる神や女神、天使や大天使ではないし
Rieのスピリットガイドでもなければ守護天使でもない。
無論、宇宙人と呼ばれる存在でもない。

 

これまで私はこの地球や人であるあなた達とその歴史を見てはきたけれど
直接人と関わることはなかったからね、あなた達が知らないのも当然のこと、だろうと思う。まぁ、私達にしてみれば名が重要かといわれれば、決してそうではないと答えるだろう。

 

存在といっても見えない世界においては多種多様に存在がいて、その全てが地球上で名が知れ渡っているかというとそうではないからね。
そのようなものでもない。全ての存在がこの地球上でメジャーなものばかりではないということ。

 

それに、だ。

たとえ名が知れ渡っているといってもその情報も混沌としているようだ……。

神や大天使達もそのことについては苦労しているようだね。

 

あなた達には私達が見えないし分からない
姿や形がとらえられないものに対してどのように把握して良いのか分からない。

だからこそ見えない世界や存在の全部をあなた達が把握することは不可能なことでもあるし情報が錯綜するのも当然と言えば当然のこと。

 

あなた達は魂を持ち合わせる生命体だ。
即ちあなた達も肉体をまとってはいるがそもそもは霊的な存在だということ。

そして今は人として魂の経験を積みながらこの地球に生きているのだとそのように言えるだろう。

 

長い歴史の中、文明が発達していくうちに人は目に見えること、それは物質や目の前の現実。人と人との関わり……それらを優先していくようになり、
徐々に必要のないものとして視覚以外の感性や感覚を使って把握するという能力を閉ざしてしまったという経緯がある。
脳がそのように判断したのだ。
けれど今もあなた達の中に眠る能力として残っているのだよ。

 

そのようになっているからこそ人はその人間の想像や理解を超える物事に対しては興味は惹かれるかもしれないが(反対に未知のものに対して恐怖を覚えることもある)
通常の感覚や意識で捉えることは難しいからね。


聞いた話からそこに己の価値観や憶測、想像、ときにその者の主張を交えながら言葉を伝えていった。まるで伝言ゲームのように。
正確に伝わっていないからこそ、だからこそ余計に混乱してしまい今の状況が現れてしまっているのだとそのように言えるのではないだろうか?

 

いったいなぜこのような現状になっているのか、そのことについてあれこれ言っても仕方のないことだからね。

私はそのことについて語っているのではない。

ただそのようになっていたのだと受け止めるのみだ。

 

そこに善悪はなく、優劣もない。私達は魂とは存在意義も異なり魂のように成長を行う理由も目的も持たない。もちろん転生をする必要も人として生きる理由ももちろんない。ただ宇宙に存在するもの。(けれど先ほども言ったように宇宙人ではない。)

この世界を見通せるものでもあるのだ。

 

輪廻転生とは魂の為のシステムだ。その中であなた達は様々な惑星で転生を繰り返し
魂を磨いているのだとそのように言えるのだから。


私はこれまで人を見てきた。地球のことも。
良いも悪いもなく、ただそのようになっているのだとそのように感じながら、
介入することもなくただ見つめていたのだよ。

 

神や地球にまつわる存在達を知ってはいる。
けれど私はあなた達の言う神や人に創られた存在ではない。ではなぜ我々がこうして存在しているのか?人であればそのように考えるのだろうが、私は人ではないからね。疑問に思うこともない。

 

私は私で存在している、そこに意味付けや理由を求めるのは人としての生き様だろうと思う。

人は人として、私達は私達として存在している。

ただ、それだけのこと。

それもあなた達が知らないだけでこうして確かに私は私として存在している。

 

そして今はrieが私に付けてくれた“ネージュ”という名でここに存在しながら

Rieを通して地球というこの世界を見つめている。
そして人というものを感じているということになるのだろう。

 

 

 

〜続く〜